「桑の木の壁面と大根を育てて描いた絵のある教室と私の人生のひとかけら」
桑の木の壁面は、子どもたちが桑の葉を利用して、彩色の練習、絵具の塗り方の勉強をしたものから毎年、桑の木の壁面を作るようになった。
壁面づくりは、初めて赴任したS小学校のころからやっていた。教室中に絵があふれて、はるところがなくなったので、階段の壁を利用して、作ったのが最初だったと思う。
その写真は残っているはずなのだが、なかなか見つからないので、ブログに書くのは後回しにしている。
昔は今のように、カメラで撮った写真をパソコンに入れて整理することができなかったことと、カラーの色が悪かったので保存もきかなかったのだった。
(このアルバムは、分教場時代の子どもの絵を写真に撮ったものを入れてあるものである。この写真についても書いておくことがあるので、再掲載して書きたいと思っている)
ただ、安いアルバムで撮影した写真を入れ、最後にフイルムを入れておくものがあったのを知らなかった。分教場時代にやっとそれを使用し始めたので、分教場時代の写真はきっちりと保存されている。
フイルムで撮影するときに、私は、富士フイルムも利用したが、コダックの方がカラーの色がよかったのでコダックを使用した。ただ、値段が高いのにはこまったものだった。
また、子どものマット運動などには白黒写真を利用した。白黒写真には、べた焼きという焼き方があって、いったん、撮影したすべてをフイルム大の大きさで焼きつけて、その中から気に入った写真のみを引き延ばすことが多かった。
話はそれるが、高校の修学旅行では九州に行ったのだが、そのときの写真はすべてべた焼きにし、それもアルバムにしていた。
高校時代は1年生のときには中学生から引き続いてバレーボール部だったが、2年生の担任のYT先生の影響を受けて、文学青年?になっていた。小林秀雄や三好達治、大江健三郎、梶井基次郎などを読みふけった。
教員になって、今から振り返ると、バスケットやバレーボールのクラブで汗を流し、陸上100m走で11秒台で走り、空手での寒げいこなどを経て、文学や写真の世界を少し垣間見て教員になったことはよかったのではないかと思う。
運動と文学の両方を経験したという意味で。
それも教員になりたいと思ってなったわけではなく、勤めた会社が嫌になり、やめて無職になったときに、妹の図工の先生に、今、男の教師が足りないのでと教育委員長のところに連れていかれて、臨時免許の助教諭というのをもらって教員になった。
昔、はやった言葉で「デモシカ先生」というのがある。「先生でもなろうか」「先生しかなれない」という教員批判の言葉である。それだけ先生という仕事は馬鹿にされていたわけである。
私は「先生でもしておこうか。また、他の仕事がみつかるだろう」ということなので、「デモ先生」ということになる。
高校時代、巨大なヒマラヤ杉の林立する横にあった図書館で、ウィリアム・シェークスピアの全集を読みふけったことを思い出した。
『ハムレット』『マクベス』『オセロー』『リア王』などの四大悲劇も読んだ。『ロミオとジュリエット』『ヴェニスの商人』『夏の夜の夢』『ジュリアス・シーザー』などを読んだのを覚えているのだが、もう一つ、理解していたとは思えない。
そんなときに友人に誘われるままに、科学部の中にあった写真部に入部した。
理科準備室には暗室があり、自分で白黒の写真を現像した。現像液などはクラブ費でまかなわれて、フイルムと印画紙を買うだけだったので、お金もそういらなかった。懐かしい時代である。学生時代には高槻市の写真クラブ、会社時代も写真部にいた。
イーハトーボ分教場のあと、街のH小学校に赴任したときあたりから、フイルムで撮影するのではなく、デジタルカメラというものが登場してきた。
まだまだ、写真の品質がよくなく、学校で買ったカメラも役にたたなかった。しかし、そのうちに、大阪の日本橋の電気店で、デジタルカメラで撮影されたイタリアのドームの中のカラー写真を見て、「これからはデジタルカメラの時代がくる」と思った。
この話の続きは教室の話につながるのだが、それはまたにしよう。
私たちの世代、「団塊の世代(だんかいのせだい)」は、本当にいろんなものが変化する時代だった。この歳になって、いまのITの時代にはついていけないことになる。世界は大きく変わった。
話を戻そう。それに、私は、几帳面に整理して保存できる性格ではなく、さらに、次から次に授業のアイデアが浮かんできて、保存場所がわからなくなっていったのだった。まあ、ADHDの整理整頓ができない部類に分類されるはずである。
まず、桑の葉をH小学校の森に子どもたちと取りに行く。自分の気に入った桑の葉を一枚、教室に持ち帰る。
それを画用紙の上に置いて、鉛筆でふちどりをする。すると、写実的な桑の葉の線書きができる。それに葉脈を書き、色を塗り始める。色の作り方はこれまた、別のブログに書こう。
この子どもたちのときは教室の後ろの中央に模造紙をはり、桑の木の幹や枝を前の日に描いておいた。
子どもたちは、それぞれの早さで桑の葉の色を塗って仕上げる。水彩絵の具なので、それなりの薄さが必要だ。葉脈が消えてしまうほど濃く塗るとあまりいい絵に仕上がらない。もちろん、薄すぎたらそれもよくない。仕上がったら、はさみでまわりを切る。脚立にのぼっている私のところに自分で描いた桑の葉を持ってくる。
「先生、そこの枝に貼って」と自分の桑の葉を貼る場所を私に言う。そこで、私は、その場所に貼って、どんどん、桑の木が完成していくというわけだ。
桑の木の壁面の両端には、子どもたちが種を植えて、水をやり、虫を取って育てた大根の絵がはってある。
こういう教室を私は見るとほっとする。
私が先生になったときに読んだ北川民次の子どもたちの絵の指導の本には、仕上がったら、できるだけ早く、絵を子どもたちから取り上げると書いてあった。子どもたちの絵は、書き終わることによってその役目を終わるのだというのだ。
それは、今でもその通りだと思う。でも、子どもたちの絵に囲まれた教室もいいではないか。
たくさんの絵を描いていくので、はる場所がなくなってしまう。それに、クラス全員の絵がはってある教室で参観日をすることも大切なことである。学校の様子をできるだけ保護者に見せるのも重要な教員の仕事の一つである。
そういう意味で、「学級通信」というものはとても大切なものであると思う。「学級通信」というものの存在を知ったのは、教員になって3年目くらいだったか、つまり、私が初めて赴任したH小学校の教員はだれも学級通信を発行していなかったのだった。
学級通信についてもたくさん書くことがあるので、また、稿をあらためて、書いていきたい。