2025年 10月 20日
「授業とは新しいことを知る喜び・ブルーノ・タウトについて」 |
「授業とは新しいことを知る喜び・ブルーノ・タウトについて」
2025年10月18日に私が初めて知ったブルーノ・タウトについて
ドイツのデザイナー、タウトは、一般的に建築家であり都市計画家でもあるブルーノ・タウト(Bruno Taut, 1880-1938)。
彼は20世紀初頭のドイツで活躍し、特に日本との関わりが深い人物として知られている。
ブルーノ・タウトとは?
調べてみた。
ドイツでの活動
彼は、色鮮やかな色彩を用いた「表現主義建築」の代表的な建築家の一人だそうだ。
集合住宅(ジードルンク): 第一次世界大戦後の住宅難の時代に、ベルリンなどで多くの労働者向け集合住宅を手がけました。これらは「色の建築家」と呼ばれる彼の特徴がよく表れており、その一部(「ベルリンのモダニズム集合住宅群」)はユネスコ世界遺産にも登録されている。
ガラス・パヴィリオン: 1914年のドイツ工作連盟ケルン展で発表した、ガラスを多用した建築で大きな注目を集めた。
日本との深い関係について
タウトは、ナチス・ドイツ政権から逃れるため、1933年(昭和8年)に来日し、約3年半にわたって日本に滞在した。
日本美の再発見: 彼は日本の伝統的な建築や文化に深い感銘を受け、特に京都の桂離宮を訪れた際にその簡素で洗練された美しさを絶賛したそうだ。
著作活動: 滞在中に『日本美の再発見』や『ニッポン』などの著作を執筆し、それまで西洋的な価値観からは評価されにくかった日本の「わび・さび」のような美意識を高く評価し、世界に紹介した。
工芸デザイン: 滞在中は建築の仕事には恵まれなかったが、群馬県高崎市の工芸指導所などで指導にあたり、日本の伝統的な素材(竹、和紙、漆など)を用いたモダンな工芸品(家具、照明器具など)をデザインした。
タウトがデザインし、日本の職人と共に製作した籠の主な素材は籐(とう)、英語名はラタン (Rattan)。
タウトが籠の素材として用いた「籐」は、ヤシ科の植物のツルで、非常にしなやかで弾力性があり、曲げ加工がしやすいため、タウトがデザインしたような複雑で美しい曲線のフォルムを作るのに適していた。
しかし、彼は竹を階段の手すりに使ったりして多用していると思われる。
また、籠などの素材は竹の皮も使っていたのではないだろうか?
この素材はどうみても竹の皮のようである。
タウトは、群馬県の高崎市に滞在中、群馬県工業試験場(当時)の指導員として、地元の職人たちと共に多くの工芸品をデザインした。その中には、竹を使った作品(竹細工)もあるが、特に有名で彼のデザイン性が色濃く出ているバスケットやランプシェードの多くは、この「籐」を素材としているという。
また、現在もブルーノ・タウトが指導した技術やデザインは、特に彼が長く滞在した群馬県高崎市の職人たちによって受け継がれている。
現在でも、高崎市内の工房やクラフトショップなどで、タウトのデザインに基づいた「復刻品」や、彼の影響を受けた籐製品が製作・販売されている。
タウトのデザインした籠は、単なる民芸品ではなく、モダニズムのデザインと日本の伝統的な手仕事が融合した素晴らしい作品として、今もなお愛され続けている。
日本国内に唯一現存するタウトが手がけた作品として、静岡県熱海市にある「旧日向家熱海別邸」がある。
これは住宅の地下部分の内装をタウトが設計したもので、彼が日本の伝統美と西洋のモダニズムをどのように融合させたかを見ることができる貴重な建築物であり、国の重要文化財に指定されている。
ブルーノ・タウトが桂離宮を見て「最大の単純(簡素)のなかに最大の芸術(洗練)がある」と言った。
桂離宮に関してタウトが述べた言葉として最も有名で、彼の感動を最も端的に表しているとされるのは、
「泣きたくなるほど美しい」
という言葉だそうだ。
by ir_ihatov
| 2025-10-20 14:10
| 教室・保育室・講義室から
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