2025年 10月 20日
「懐かしい『鳥の歌』をテレビでやっていた」 |
「懐かしい『鳥の歌』をテレビでやっていた」
大阪音楽教育の会(大阪音楽サークル)でよく歌っていたカタルーニャ民謡の『鳥の歌』がテレビから流れてきた。
私はこの『鳥の歌』が好きだ。音楽サークルで歌っていたのは、林光編曲 北川フラム訳詩で入道雲3集に入っている。
歌集「入道雲3」の表紙は、私が教えていたS小学校4年生の泰啓くんが大凧に描いた斎藤隆介作『八郎』の絵である。
スペインの独裁政権、フランシスコ・フランコ将軍による軍事独裁政権(1939年~1975年)について少し触れておこう。この歌を歌うとき、ぱぶろ・カザルスのことを思い出さずにはおれないのである。
そして、20世紀最高のチェリストと称されるパブロ・カザルスは、このフランコ政権に対する最も著名な抗議者の一人であった。
カザルスとフランコ政権の対立は、スペイン内戦(1936年~1939年)に始まる。
カザルスは、自身の故郷であるカタルーニャの自治と文化を深く愛していた。彼は、民主的に選ばれた「共和国政府」の熱心な支持者だった。
これに対し、フランコ将軍は軍隊を率いて共和国政府に対して反乱を起こした(ナショナリスト派)。これがスペイン内戦の始まりである。
フランコはナチス・ドイツやファシスト・イタリアの支援を受けて勝利し、1939年にスペイン全土を掌握。強力な中央集権型の独裁政権を樹立した。
亡命と「演奏による抗議」
フランコが勝利し独裁者となったことで、カザルスの運命は一変する。
1. 祖国を捨てる「亡命」
フランコ政権は、カザルスが愛したカタルーニャの言語や文化を徹底的に弾圧した。身の危険を感じたカザルスは、1939年にスペインを離れ、国境に近いフランスの小さな村プラドへ亡命した。
彼は「フランコ政権が続く限り、二度と祖国スペインの土は踏まない」と固く誓う。 (カザルスは1973年に亡くなり、フランコが死去(1975年)するまで、その誓いを守り通した)
2. 世界に対する「沈黙の抗議」
第二次世界大戦後、世界はナチス・ドイツとファシズムを断罪した。しかし、フランコの独裁政権は、冷戦の地政学的な理由などから欧米諸国に「容認」され、存続した。
これに深く絶望したカザルスは、1946年頃から、「フランコ政権を公に承認する国々では、一切の公の演奏活動を行わない」と宣言。
これは、世界的な名声を誇る芸術家による、最も強力な抗議の意思表示であった。彼は十数年間、コンサートホールでの演奏活動をほぼ停止し、プラドに隠棲した。
平和へのメッセージ「鳥の歌」
カザルスの抗議の象徴となったのが、カタルーニャの民謡である「鳥の歌 (El Cant dels Ocells)」である。
彼は、この物悲しくも美しいメロディを、コンサートの最後に必ず演奏することを常とした。
国連本部でのスピーチ(1971年) カザルスの抗議活動の中で最も有名なのが、94歳の時に国連本部で国連平和賞を受賞した際のスピーチと演奏である。
彼はスピーチの最後にこう語った。
「私の故郷、カタルーニャの鳥は、空を飛ぶとき、こう鳴くのです。『Peace, Peace, Peace(平和、平和、平和)』と」
そして、故郷への想いと平和への祈りを込め、「鳥の歌」を演奏した。この出来事は、芸術が独裁や抑圧に対して持ちうる、静かであるが最も力強い抵抗の姿として、世界中に感銘を与えたのだった。
私は学校の教員たちにこの『鳥の歌』を歌ってほしいと願っている。そして、パブロ・カザルスとパブロ・ピカソを思い起こしてほしいと思っている。そして、高学年から大学までの子どもや学生たちに語ってほしいと思う。
世界で独裁政権に抵抗した三人のパブロは誰でしょうか?「3人のパブロ」というテーマで授業をするのもいいと思う。この話を丸山亜季にするとメモをしていたのを思い出す。
by ir_ihatov
| 2025-10-20 16:26
| 教室・保育室・講義室から
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