「小学校の教室・大学の講義室から・アンデスのポップコーンの授業の一部・藻類バイオマスエネルギーの可能性」
藻が油を作るというのは、私の若いころから聞いていたがそれがいよいよ実現するかもしれないという。
そういう話はよく小学校でもした。実験もした。そんな難しい話がわかるのか?と思うかも知れないが、けっこうわかるのである。まあ、小学生をあまり馬鹿にしない方がいい。
といってもその学年なりの内容や話し方があるわけで、それは、何十年も教員をしていると、反射的にその子どもたちにわかるように話しているわけである。
この写真は藻が油を作っているところである。それに光?を当ててみると確かに緑色が光る。油が光っているわけだ。
藻類が作る油はちゃんと使えるのは、今では実証ずみである。現に車を走らせていることでもわかる。バイオマス燃料では次の表のようなトウモロコシ、大豆、菜種、ココナッツ、パームなどでもできる。
しかし、これらの原料は、食料であるから、これを燃料にかえるのはまずい。実際、アメリカでは遺伝子組み換えのトウモロコシを燃料に変えている。食料として売るより燃料として売る方が儲かるので、その工場が少しくらい遠くにあっても農場主は売りに行く。
これはバラク・オバマが大統領選を戦っている時代の話であるから、今ではかなり論点も変わっている。
とにかく、アメリカの農場主は自分の畑の半分で遺伝子組み換えのトウモロコシを育て、あと半分で遺伝子を組み替えていない日本向け輸出の大豆を作っていたのが、トウモロコシで油を作ると儲かるので、大豆耕作地を小さくした。そこで、収穫量が減った遺伝子組み換えのない大豆は高値で取引されるようになったわけである。
遺伝子組み換えというのは、古い方法で、今では、ゲノム編集と言う。 クリスパーキャスナインというのがよくニュースになっているのでよくご存じの方も多いと思われる。
この授業は「ポップコーンの授業」という総合的で大きな授業を小学校、大学、フリースクール、東京アカデミーでした。さすがに保育園ではできないのだが。
しかし、トウモロコシの授業はした。
日本の商社は遺伝子組み換えではないトウモロコシを輸入したいので、なかなか大変らしい。豊田通商がトウモロコシをいい値段で買い損ねた映像をテレビからとれたので、これを教材にした。小学校でもフリースクールでも大阪大学、東京アカデミーでの講演でも授業をした。
このアメリカのトウモロコシのように油をとるのに使ってしまうと、食べるものがなくなってしまうのだ。今でも地球上で飢餓に襲われている子どもや大人は多い。2025年、今のガザでの映像に、がりがりにやせこけて骨だけの老人や子どもをみるころが多い。
(では人類はいつまでもこのような飢餓の状態の地域を同じだけかかえているのかというとそうではない。ユニセフのテレビCMなどをみていると世界中が飢餓に襲われているようにみえるがそうではない。それについては、またの機会に報告しよう)
さらに温暖化が進んで食物がとれなくなったら、トウモロコシを油に変えていく余裕はない。
もちろん、温暖化が進めば、むしろ、食料は増えるという考えもあるが、これも不確実な話である。そのころには、私はもう、地球の原子になってしまっているのだが、この地球の人類の将来を思わないではいられない。もちろん、娘や息子はこれからのたいへんな時代を生きていくわけだ。もちろん、私たちの時代も大変だった。大きく時代が進歩する時代であった。なにもかも変わっていった時代である。
もうすぐ、現金で電車の切符が買えなくなる、銀行がだんだんとなくなっていって、スマートフォンで出し入れしなければならなくなると息子は言う。
たしかに銀行は、どんどん縮小していっている。
切符を買うのには今のところは大丈夫であるが。
携帯やスマートウォッチで改札の機械にタッチすれば切符が買えて通過できる。と言っても、設定はいつも息子に頼んでいる。
たしかに便利である。切符売り場が満員のときには。しかし、われわれ老人は、そうも楽観してはおれないのである。切符売り場の自動販売機が縮小されつつある。数が少なくなれば当然行列になる。
「未来を学ぶ」とういう授業の中で21世紀になれば、今のような教科書はなくなって、紙一枚のような薄さの道具を学校に持ってくればいいんだ。横についているボタンを押せば、国語の教科書、さらに押せば、算数の教科書が出てくるんだよと子どもたちに言ったら本当かなあなんて言っていたなあ。重たいランドセルなど持ってこなくていいんだよ。楽だよ。
新型コロナのために自宅待機学習があり、日本全体の児童、生徒に
タブレットを配ることになった。進歩するスピードは私が思ったよりも遅いのだが、それでも、タブレットでドリルさえ出てくる。
ただ、せっかく、各教科がIT化されているのに、文部科学省は、全部の教科をタブレットで見えない状態にしたままである。なぜ?これならいままでの教科書にさらにタブレットをランドセルに詰め込んで登校しなければならないではないのか?
ランドセルが原因の病気もあると数年前から言われている。
また、教員側にも私は不満がある。ドリルはテストの用紙はタブレントの画面にでるのだが、それに記入したら〇か×が出てはくる。また、クラス全員のできばえをそのときに確認できるので机間巡視をしなくてもいいことになる。
はたして、これだけでいいのだろうか?私は疑問に思う。私は、現役のときには、市販テストが大嫌いだった。たしかにカラー刷りできれいかもしれないが、教えたことをどこまでわかったかがわからないテスト内容である。そんな表面的なテストにたよる教員に不満だった。
たしかに国語の文章を読む解読のテストは、あまりにも書いてあることだけを問題は問うていて、これでは、何のために深く文章を読んだのかわからないという状態であった。しかし、そんな簡単なテストでも間違う子どもはいる。
私はそれはそれで学力の下方の方の子どもにはいいかもしれないが、よりしっかりと文章が読める上位の子どももどうさらに進めるかを考えていた。
底辺の子の教育はよく論じられるのだが、出来る子をより出来るようにする授業内容やテストが必要なのではないのかとずっと思ってきたし、より、確実にできるような工夫を多くしてきた。
それらのことも書き残しておかねばならない。
さらに、前に教えたものの中で1,2か月すれば忘れる子どもも多い。そこをどうするかだ。
決まりきったテストや練習問題が出てくるだけで、自分のクラスはここが苦手なのだというところもおぎなっていける教員でなければならない。もちろん、そんなふうに考えていろいろな教材を準備する教員は昔もほとんどいなかったのである。
今ではさらに忙しくなって、ブラックな職場であると言われている。残業時間は1か月80時間などはとっくに越えてしまっているのが現状である。これについてはまた、書こう。
論点が藻からエネルギーを取り出す話から教室の話になってしまった。話をもどそう。
藻類が油を出すのはわかったが、では、藻類をどのように育てるかの話だ。それが、まあ、おもしろいのだ。「下水」である。下水の処理にも藻類が使えるというのだ。藻類から見れば、大変な御馳走になるのである。ここは授業をしていてもおもしろいところだ。
下水の浄化と藻類のバイオマス生産の両方が可能なのである。
高学年の子どもを連れて下水場見学に行ったことがある。近くに下水場があったからであるが、とてもおもしろかった。どうして水をきれいにするのかと言えば、バクテリアを投入するというのだ。つまり、バクテリアが下水の汚物を食べて、水を浄化するのだという。
結果、底に溜まったのが汚泥という泥であった。なるほどなと感心したことがあった。
フィコケミー株式会社会長の渡邊信氏は言う。
「各地に下水処理場はありますね。各地でバイオ原油ができる。こんな良いことはないと思いますよ」
早くそうならないかな。自民党で総裁選挙をしているが、こういうことをなぜ述べないのだろうか。この間も埼玉県で下水管に穴があいて、トラックが中に落ち一人亡くなった。
こういう陥没事故は、日本中、どこで起きても不思議ではない。それなら、なぜ、そういうインフラの整備が急がれるからこそ、私ならどうするかなどと論戦をはる必要があるのではないのか。インフラだけではない。令和の米騒動だって、「米なら私の家には余るほどある。支援者がいっぱい持ってきてくれる」なんていう農水大臣がいて、それも二世議員である。偽議員なのではないのか。
なんとか、備蓄米を出して一時的にはしのげたが、原因は、農水省の一年間の米の生産量の計算ミスが一つの原因だ。多くの官僚が東京大学を卒業しているのではないのか。・・・とつい愚痴を言いたくなる。庶民は備蓄米でもさがしてまわって買っているとニュースでやっていた。どうして庶民の暮らしがわからないのか。
銘柄米でも今年の新米は、前の年の倍の値段である。どの品物でも値上がり、値上がりである。円安傾向が続くらしいから、この物価高は、当分、続きそうである。
アベノミクスはお金持ちだけが裕福になって、経済階層の下まで届かなかった。また、その続きをやりそうな方が首相になり、株価は史上最高値、円安が進んでいる。
トマトなどの野菜は高くてとても買えない。この地球温暖化の中で、野菜は工場で作った方がいいのではないのか。何十年も前から、オランダでは、(たぶん韓国でも)パプリカなどはコンピューター管理の工場で作っている。
日本では海抜の高低差を使って一年間の野菜供給をやってきたが、それでは地球温暖化についてはいけないのではないのか。それに米の生産も若い人がやるには、収入が安すぎる。前にも書いたが、より広い面積で田植えなしでやっていく方法ももっと取り入れなければならなくなるだろう。
さて、太陽電池は今、おおきな問題をはらんでいる。それはかなり大きな問題である。自然エネルギーの一つの担い手になってくれればいいのだけれど。
太陽電池や風力発電などの自然エネルギーが各地でいろんな問題を起こしている今、その問題を克服していく必要があるのだが、原発回帰にも問題は多い。
古い原発を使うなどはとんでもない話なのである。安全だという保証がどこにあるのか。原子力委員会がそう判断したといっても福島原発でも何十年も安全、安全と言ってきたではないのか。
東京電力や関西電力の人たちには、原子力発電というものを制御していく能力がないと思う。あの人たちに原発をまかせてはいけないと思う。
メガソーラーのほったらかしによっての自然破壊と原発の自然破壊は根本的に違うのである。メガソーラーの方は法律を整備し、自然を破壊しているメガソーラーは、何とかお金さえ出せばなんとかなるのだが、原発事故による燃料デブリと使用済み核燃料は、どうしようもないのである。
私は、福島原発のまわりの市町村は、ふるさとを永遠に失ったものだと思っている。
放射能が完全に「消滅」することはないが、セシウム137は約300年、ストロンチウム90は約290年で、放射能の量が元の約1000分の1まで減少するらしい。一般的に、放射性物質の危険性が大幅に低くなるには、この「10半減期」が一つの目安とされている。
プルトニウムは何万年という半減期である。日本人にとって、世界の人類にとって何万年という時間は絶滅していてもおかしくない時間なのだからそれは「永遠」という言葉にあたいするのだと思う。
たとえば、何万年前に人類はどんな姿をしていたかを調べてみたらよくわかるのである。
われわれ日本人は福島県の一部の土地を永遠に失ったのである。さらに、デブリをどこに置くのか、使用済み核燃料をどこに埋めるのか?をまじめに考えるなら日本の国土のどこにもないのである。
日本は地震国である。太平洋プレートなど3つのプレートが重なる場所にあるのは誰でも知っている。地震の起こらない場所はどこにもないのである。それを、仮置き場に立候補すると政府からお金がもらえるという一種の餌によって手を挙げる市町村がある。
一時のお金をもらったために自分のふるさとを失った人々がいるのを知っていて手を挙げるのである。また、除染した土を今では原発近くの町に置いてあるが、あくまでも一時置きなのだという。こんな汚染された土を引き受けましょうなんて言う人は信用ならないのである。
放射能に弱い子どもたちをどうするのか?「チョルノービリ原子力発電所」のまわりの子どもたちの甲状腺がんの発生率が問題になってきたように、そんな汚染土を全国にばらまく法律をつくってまでも、なんとかその場限りの逃げの一手を打つ政治家は信じられないのである。
とりあえず、原子力発電ではなく、より安全なもの、二酸化炭素を出さないもののエネルギーの開発をめざすべきなのだ。
メガソーラーの発電に反対の人の意見をきくと、自然が壊れる。日本の家の屋根の角度がどうとか言っているが、いままでの太陽光発電の板にプロブスカイト太陽電池のフイルムを貼るとか、東京のビル街であっても、屋上だけではなく、窓ガラスや壁にも貼ることが可能であるから、その研究にもっと予算をつけたらどうか。
パナソニック、積水ハウスなどの企業は、プロブスカイト太陽電池を実用化するところまでこぎつけているし、世界との競争でもある。ただし、プロブスカイト太陽電池にもマイナス点はある。耐久性や鉛などの毒になる物質をどうするかという問題である。それについては、またの機会に書こう。
またまた、藻類の発電の話からどんどん横道にそれ過ぎてしまった。
あと、何年生きられるかわからないのに、まだ、子どもじみた話を書いているのも笑われるだろうな。
きっと、達観することなく、悟りを開くこともなく、ただただ新しい科学的な方向を見ることに喜びを感じて最後を迎えるのだろうと思う。