「アンネの形見のバラ」を捧ぐ
「恩師、YT先生を失う・斎藤喜博との不思議な縁」
正月にYT先生から年賀状が来ない。私はかなり前に年賀状じまいをした。しかし、年賀状じまいをしてもまだ来る方には出していた。実は昨年は二回目の年賀状じまいであった。
先生の息子さんから寒中見舞いがきて、YT先生が12月に亡くなられたことを知った。自分の中の何かが崩れていく思いがした。
YT先生には年賀状だけではなく、何か出版すれば、必ず送り、その評を聞いた。
一莖書房の雑誌に船戸咲子が「こんなのは島小の授業ではない。井出さん、思ったことを書いて送って」と頼まれた。
私は島小学校の授業を目標に国語の読み取りの授業をしてきた。だから、私もこんなのは島小学校の国語の授業ではないと意気込んで書いたのだが、YT先生からは、「ここまで書かなくても」という評がきた。
そんなふうに私は、YT先生をずっと頼りにしていたのだ。
先生が独身のときには、よくその下宿先によく遊びに行った。そこで、いろんな話を聞いた。読書家だった先生からいろんな本を紹介してもらった。とくに印象に残っているのは小林秀雄である。
1年生のときには現代国語を習った。自己紹介をしたときに、先生は平安時代の歌人、藤原俊成による歌を言って「井出くんだね」と言われたのを覚えている。子どもというものは、けっこういろんなことを覚えているものだ。
「駒とめて なほ水飼はむ 井手の玉川 吹く風に 波立つ影の 山吹の花」 (馬を止めて、もう少し水を飲ませてやろう。井手の玉川では、吹く風に波が立ち、その水面に岸辺の山吹の花が美しく映っていることよ。)
この歌は後で知ることになるのだが、「日本六玉川(むつたまがわ)」のひとつである京都府綴喜郡井手町の「井手の玉川」を詠んだ和歌であり、この歌によって山吹の花が有名になったというのを知るのはずっとあとのことである。
2年生でYT先生は担任になった。現代国語と古文を習った。その頃、源氏物語の研究の大御所玉上琢也の研究グループ7人の一人だった源氏の研究で著名だった清水好子もたしかいたと思う。。源氏物語の番組でテレビにも出演したことがあった。
なぜ、玉上琢也の名前を覚えているのかというと、娘さんが妹と同級生だったからだった。彼の源氏物語の本は角川文庫から出ている。
YT先生の現代国語も古文の授業も厳しかった。今でもその授業は脳裏に焼きついている。いろんな意味で鍛えられた。発問が難しいので、当てられてはたいへんなので、みんなは下を向いていたが、時には、はっとひらめくことがあって、顔を上げると当てられた。
たとえば、松尾芭蕉の「奥の細道」の有名な一節の授業。
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『おくのほそ道』平泉(抜粋)
三代の栄耀(えよう)一睡(いっすい)の中(うち)にして、大門(だいもん)の跡は一里こなたにあり。 (藤原氏三代の栄華も、今となってはひと眠りの間の夢のようにはかない。かつての居館の大門の跡は、一里ほど手前にあった。)
秀衡(ひでひら)が跡は田野(でんや)になりて、金鶏山(きんけいざん)のみ形を残す。 (秀衡の屋敷跡は今は田畑となり、金鶏山だけが当時のままの形をとどめている。)
まづ高館(たかだち)に登れば、北上川(きたかみがわ)南部(なんぶ)より流るる大河なり。 (まず義経の最期の地である高館に登ってみれば、北上川が北から流れてくる大河として目の前にある。)
衣(ころも)が関(せき)は和泉(いずみ)が城をめぐりて、衣川(ころもがわ)の下(した)にて大河に落ち入る。 (和泉三郎の城のあたりで衣川が合流し、北上三代の栄耀(えよう)一睡(いっすい)の中(うち)にして、大門(だいもん)の跡は一里こなたにあり。川へと流れ込んでいる。)
泰衡(やすひら)らが旧跡(きゅうせき)は、衣が関を隔てて南部陣(なんぶじん)を固め、夷(えみし)を防ぐと見えたり。 (泰衡らの古い城跡は、衣川の関を隔てて防備を固め、蝦夷を防ごうとした当時の様子を思わせる。)
さても義臣(ぎしん)すぐってこの城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。 (それにしても、義経に忠実な家臣たちが選りすぐられてこの城にこもり戦ったが、その功名も一時のことで、今はただの草むらとなってしまった。)
「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」 (夏草が生い茂っている。ここはかつて兵士たちが功名を夢見て戦った、はかない跡なのだなあ。)
「杜鵑(ほととぎす) 亡魂(ぼうこん)を呼ぶか 皐月(さつき)かな」 (ホトトギスの鳴き声は、死んでいった者たちの魂を呼び戻そうとしているのだろうか。今はもう五月なのだ。)
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先生の発問は次のようだった。
「三代の栄耀(えよう)一睡(いっすい)の中(うち)にして、大門(だいもん)の跡は一里こなたにあり。とあるが、大門の跡は一里こなたにありということから何がわかるかな? 」
考えた。「一里とは4キロメートルのことだ。ということは、昔、大門があった場所はものすごく広いということで、それだけ栄えていたことだ」と発言した。
授業はこのように進んでいった。今、「考える授業」と言っているが、そのとき、島小学校での国語の授業はまさに「論理的に考える授業」であったわけで、そこから影響を受けていたであろうYT先生の授業はおもしろかったのだ。
私はそういう授業で高校時代、育ったわけであったから、小学校の国語や理科の授業も考えさすことが多かった。
そのクラスは無茶苦茶、私にとっては楽しかった。スポーツマンだった私は、先生の影響を受けて、文学青年になった。
その変わりようは相当なものだったらしく、私が2階の教室の窓の下の運動場で休み時間にキャッチボールをしていたら、「井出がキャッチボールをしている」と誰かが言って、窓が鈴なりになったのを覚えている。
私はそのころ、『砂漠の氾濫』が大好きで、『アラビアのロレンス』の映画をたしかシネラマで観た記憶がある。今のワイドスクリーンがなかった。ワイドスクリーンにするために、なんと、3台のカメラを同時に映写するのだ。
デヴィッド・リーン監督、ピーター・オトゥール主演の映画の題名は『アラビアのロレンス』原題:Lawrence of Arabiaだ。
日本にきた初めての作品は、『これがシネラマだ』でナイアガラの滝をドラマテックに映写したものだった。とにかく、父がこのシネラマに連れて行ってくれたのを覚えている。
なぜ、ロレンスが好きになったのかを考えると、YT先生から紹介された『アウトサイダー』という本に感動したからだった。
その当時、コリン・ウィルソンの大ベストセラー『アウトサイダー』(1956年刊)の中で、ロレンスは「アウトサイダー(社会の枠外に立つ人間)」の代表的な人物として非常に大きく取り上げられていた。
ウィルソンはこの本の中で、ニーチェやドストエフスキー、カフカなどの作家と並び、ロレンスを「行動するアウトサイダー」として分析した。
ロレンスが砂漠での英雄的行動の裏で抱えていた深い虚無感や自己嫌悪、精神的な葛藤を、『知恵の七柱』の記述をもとに論じていた。
「アウトサイダー」としての孤独、 映画での英雄像とは異なる、「自分は一体何者なのか」と悩み苦しむロレンスの内面的な孤独にスポットを当てたこの分析は、当時の読者に強い印象を与えた。
初めの映画の公開時には、カットされた部分があったのがあとで私はわかるのだが、とにかく、『知恵の七本柱』を読みたくなって先生にたずねた。
T・E・ロレンス(トマス・エドワード・ロレンス / Thomas Edward Lawrence)の作品を読みたかったが、今のようにパソコンで検索できる時代ではなかったので先生に手紙を出して聞いてみた。
すると平凡社(東洋文庫): 1960年代から「東洋文庫」シリーズとして出版されていることを教えてくれた。たしか今でもあるはずだ。当初は全3巻だったが、現在はより詳細な『完全版 知恵の七柱』(全5巻)も出版されている。
Y・T先生との雑談の中で、覚えていることがある。それは島小教育の校長、斎藤喜博のことだった。なぜ、そのとき一度だけしか聞かなかったその名前を覚えていたのかが不思議だ。
ブログにも書いたが、能力をお金で計算される営業職というものに嫌気がさして会社を辞めた。業界3位の会社だったが、先輩が将来についていろいろ話してくれたのもその会社を退社する理由の一つだ。給与体系がひどかった。例えば、子ども手当が200円だった。そのころの社会は就職はかなりいろいろあったから会社にしがみつくことはなかったのだと思う。
私の娘や息子の就職氷河期時代とは違った。
もう一つの理由は、京都美術館の画集を制作することになったとき、美術館の庭の見える落ち着いた部屋で、本を作るうちに、私は、その本を受注する方ではなく、学芸員のように発注する方の仕事がしたいと思ったのだ。何か、文化的な仕事がしたかった。次の仕事も決まらないのに、突如、辞めることにした。
営業成績はかなりよかったので会社を辞めるには一苦労だった。
ひょんなことから、妹の図工の先生が家庭訪問にきたときに、「お兄さん、会社を辞めたのなら、紹介するからついてきて」と言って教育委員長の所につれて行かれた。
明日からでも来てほしいと言われたが、中高校の免許もないというので、大阪府教育委員会を紹介されて、女性の課長さんから「助教諭」という臨時免許を「がんばってね」とにこっと笑って渡されたのを覚えている。今の非常勤講師だ。
そして、前にもブログに書いたが、校長室で、「私は音楽もピアノもできません」と言うと、「大丈夫です。音楽専科の先生がいますから」ということで私はほっとして先生という仕事につくことになったのだった。
SY先生の音楽の授業のすばらしさに感動して、子どもたちと音楽の時間に『機関車の歌』などを歌った。音痴で音楽嫌いの私がである。
その時にSYさんに「読んでみて」と渡されたのが斎藤喜博編の『島小の女教師』(麦書房刊)であった。
何という縁というかYT先生から聞いた「斎藤喜博」の本ではないか。不思議な何かの縁を感じたのだった。
そのYT先生が亡くなった。新卒で受け持ってもらったわけだから、私より7歳年上なだけだったけど、私には、人生で特別の恩師だったのだ。